「鹿児島の経営者」にて先代の重久政市が取り上げられました

当社先代の重久政市の話が『鹿児島の経営者』にて掲載されています。

鹿児島の経営者
福山酢先代の重久政市

船着場で情報収集
今はしゃれてライス・ビネガー、昔は「アマン」と呼ばれて親しまれた福山酢。 現在、福山や国分を拠点に六社が造っており、このところ全国的な有機野菜・健康食ブームの追い風も手伝って売れ行きを伸ばしているが、そのアマンを、今日の全国ブランドに育てた、第一の功労者が重久政市。数少ない彼の語録の中に「永く続いたも のはこれからも続く」というのがある。『正露丸』や『樋屋奇応丸』に通ずる商品の原点を言いあてている。

食酢に限らず昔は生活に必要な品すべて自給自足が原則だった。しかし藩政時代も末期になると、鹿児島でもしだいにそれらが商品化され、分業が進み、流通網ができてくる。資料によると、福山に商品としての米酢の製造業があらわれるのは文政年間 (1820年代)らしい。

当時、南薩地方で行商をしていた福山村廻の竹之下松兵衛、が日置に産する米酢の良さを知り、製法など聞き取り、サンプルを福山に持ち帰って製造を始めたのが嚆矢だ。

政市の父・政助は松兵衛の跡取り・州三と親友の仲。「お前もやらないか」と州三に誘われて酢の製造を始めた。明治七年 (1874)のことだ。長男の二代目・政太郎は四十歳代の若さで破傷風のため急死。本来なら政太郎の次弟・治助が重久本家を継ぐところだが、すでにそのころ福山には小規模ながら十数軒が酢の製造を始めており、治助も独立してその仲間に加わっていた。親族会議の結果、小学校を出て長兄・政太郎を手伝っていた三男の政市が三代目として後を継ぐことになった。

重久政市。明治二十三年生。すぐ上の兄、治助にならっていずれ独立するつもりだったから立ち上がりは早い。迎えた妻・シノは文字通り彼の片腕になってくれた。彼女は町のしにせ麹屋、川畑どんの娘。酢づくりの生命である麹つくりにかけては、当主の川畑金三も一目置く技能の持ち主だっ た。それだけに仕事やしつけにきびしい。勝ち気な性分もあって「私の家内はいつもどやされてベソをかいていました」 (政市の次男、現会長・政春、大正七年生)。

当時所有していた甕は二斗八升入りでざっと六百本。これを春と秋二回仕込む。「春は柿の葉が二銭銅貨の大きさになったころが適期、と教えられた。工程を季節に合わせ、手間とタイミングをはずさないことがいい酢づくりのコツ。これはいまもかわりません」と四代目の政春。六百本もの甕を毎日攪拌するのは重労働だ。デカン(下男)や臨時雇いの村人のほかに子どもたちも手伝いに駆り出された。

それにしても、昔はどこでも作っていた酢が、なぜ「福山酢」としてここだけに生き残ったのだろうか。政春は「良水が豊富など自然条件もあるが、商品として優位に立てたのは福山が流通の拠点だったおかげではないか」と言う。

大隅と薩摩の分岐点に位置する福山。しかも当時、鹿児島への往来は錦江湾の海路である。商人や流通業者はここで宿をとり、商談をまとめ、荷を積みかえた。船着き場かいわいは諸国の情報が飛びかう。政市は熱心に旅人宿を訪ね、相場や産地の穀物の出来具合についての情報に耳をそばだてた。そのとき 羽織にしのばせて持ち歩いた政市愛用のそろばんが今も役員室に大切にとってある。倉が焼けたと聞いて火事場に駆け付け、 る。倉ごと米を買い叩いたこともある。

彼は地の利をいかして販路を庄内、都城に広げ、やがて朝鮮半島、中国東北部(満州)に進出する。商品名も当初の『銘酢』から産地名を冠した『福山酢』にかえた。満州進出のきっかけをつくったのは、昭和十年代、満州電々に勤務していた政春だ。奉天の寿司屋で店主が「ネタはいいのだが、ここではいい酢が手に入らない」とこぽしているのを耳にした彼は、早速父に連絡「これを使ってみてくれ」と送ってきた福山酢を寿司屋に届けた。最盛期、朝鮮向けだけで毎月一斗入り千本出荷したという。政春の情報に敏感なところは父譲りか。

写真で見る政市は、やさ顔で細身。そして無趣味。口数も少なかったが、それだけ、たまに発する言葉は重かった。例えば「すっきりした気分でやらないと商売は伸びない。」この言葉は政春の長男、現社長・政純(昭和十九年生)も聞いたことがある。公明正大にやれまず税金はきちんと払え、ということだろう、と政純は解釈した。

初代・政助以来の「重久商店」は戦後の昭和三十九年「福山酢醸造株式会社」に改組。これに先立ち、二十八年、政市は四代目・政春にバトンタッチ、同年鹿児島市西田町に本社を移した。その後沖縄、東京に支店を開設。現在米酢のほか玄米酢・醸造酢など十数種を生産販売している。福山の工場に展開する甕はざっとと五千本。酢甕は特殊なうわぐすりを使うため本土ではもう調達できないのが悩みで、今はもっぱら韓国、台湾に発注している。とはいえ、現役の中には製造してから二百年という”国宝級”のものもある。

念願の鹿児島進出を見届けるかのように、政市は昭和三十一年十一月死去。六十八歳。
健康食品ブームに加え、まだ記憶に新しい「O157」騒ぎも社業の追い風になった。平成九年に発売した『野菜洗いま酢』が話題を集めている。「次の課題は酢製造後のカスの有効利用。家畜の飼料化に取り組んでいる」(政純社長)。

今や焼酎、薩摩揚げなどと並んで鹿児島の土産品の主力を占めるまでに成長した福山酢。伝統にこだわりながら、いかに現代感覚を商品開発に盛り 込んでゆくか、老舗に課せられた使命と責務である。

<出展>
先駆者五十人に学ぶ 鹿児島の経営者
二〇〇〇年六月八日発行
発行:情報機器販売株式会社
制作:株式会社南日本新聞社開発センター

※掲載内容は当時(2000年)の事実に基づいております為、 現在のものと異なる部分がございます。あしからずご了承くださいませ。

黒酢の福山酢(ヤマシゲ)鹿児島福山町で二百年続く黒酢醸造所